いつか花ひらくときまで

 指先に触れた雪は音も無くほどけ、するりと胸に冷ややかな風が吹き抜けた。
当ての無い雪溶けに思いを馳せる。この冬は何時になれば氷解するのだろう。あきらかな諦念とともに、その冷たさに目を閉じた。
 雪はこんなにも脆弱に儚く流れ逝くというのに、張り巡られた氷は意固地に春の存在を忘れた。
はらりはらりと冷気がはがれ堕ちるかのように希薄になっているというのに。蕾が鮮やかに花ひらこうというのに。
    


    雪解け



  2



 「もうすぐ暖かくなるわね」
 隣を歩く祥子がぽつりと呟いた。
令は答えるべき言葉が見つからず、そうだねとだけ相槌を打つ。
彼女の方は其れに気分を害した様子も無く、最初から答えを期待していた訳ではないようだ、瞳を前に向けたまま然程乱れてもいないスクールコートの襟を直した。
 しかしそうは言う物の、未だ吐く息は白く凍り肌や髪をなぞる風は其の鋭利さを誇っていた。けれど、暦の上ではもう春に差し掛かろうとしている。
恐らく、彼女が言いたいのは其のことではないと思う。何が言いたかったのだろうか。
薔薇さま方の卒業のことだろうか。自分達が蕾となることだろうか。
そんな令の思惑を遮るように、祥子が浅く息を吐いた。
「何でも無いことの筈なのだけれど・・・」
乾燥した空気の所為か白く軽薄に感じる陽気に祥子は決して混わらないような重い視線を投げ掛けている。
「思い通りにならないものね」
吐き出された言葉はただ底の無い深淵に沈んでいくような気がした。



 3



春の花が、その蕾をゆっくりとを膨らませ始めた。
所在無げに枝を伸ばしていたその木々に溢れ落ちるような花弁を湛える日がもう近いのだろう、期待に陽気までもが微笑んでいるように感じた。
 途中で合流した彼女と並び、今日も薔薇の館への道を急ぐ。
暖かくなり始めているとは言うものの肌寒いことに変わりはなく、未だコートが手放せない。
 こうして祥子と歩くのは何日ぶりだろうか。
最近は何かと時間が噛み合わず、薔薇の館以外では会うことも無かった気がする。
そう言ってみると、そうだったかしらとにべもなく返されてしまった。
 少し前まで、クラスメイトの一人が何の前触れも無く忽然と転校したことで彼女のクラスが一時密かに、しかし騒然としていたが既に其の面影は無く、関係していたと思われる白薔薇の蕾の豹変も、皆容認し始めている。
 しかし変わらず彼女は何処か物憂げで、長い睫毛を重たげに伏せていた。
お姉様方も其れには気付いている様子で、それとなく気遣うような物言いをすることがある。
祥子もそれを感じ、務めて明るげに微笑み桜が嫌いなのだと冗談めかして言った。実際そうなのかもしれないけれど、それ以外の理由があるように思えてならなかった。
その沈み勝ちな横顔は何処か洗練されているようで美しく、しかし皮肉げに笑んでようにも見えた。



 4



 一つの季節が、静かに幕を降ろそうとしている。
 木々は更なる花を咲かすことはなく、麗らかな陽気のもとただ儚げに花を散らすばかりだ。
行事に追われ瞬く間に過ぎ去ってしまい、省みれば桜さえもちゃんと見れていなかったように思う。
休日には由乃と近くの河原へ見にも行ったが彼女との会話に夢中で記憶に留めた桜はどれも霞がかっていた。
そんなことを思いながら足を運んでいると、大きな桜の木に行き着いた。はらはらと降る花弁はまるで夢のようで、地面に落ちる前にふと消えてしまうのではないかと思えるほどだった。
  祥子、こんなに綺麗なものが嫌いなんだ。
 彼女は、只でさえ好き嫌いが激しい気性ではあるけれど、何だかそれは勿体無いような気がした。
蕾という呼び名には未だ慣れない。



 5



 初夏の風が通りすぎ、差して長くもない髪を日差しの中に踊らせた。
これが、あの長く黒い髪ならばと思う。陽光に薄く透け、軽やかに舞うことだろう。それはあのぴんと伸ばした背筋によく映えた。
 未だ入学から3ヶ月と経っていないというのに彼女の人気振りは目を見張るものがあり、上級生からの人気も負けてはいなかったけれど、彼女と歩いていると見とれている生徒は明らかに一年生が多かった
 その事を由乃に話したら、そんなこと無いと言われ顔を思い切り反らされてしまった。
暖かい時期に入り、由乃の病状は安定している。



 6



 学校では彼女を廊下で見かけるも多かったけれど、夏休みに入ると又薔薇の館で会うだけの日々が続いた。
最近は初めほどの悲愴感は無くなったけれど、未だ何処かが引きずられているような気がする。
それに気付いたのはそう遠くはない最近のことだが、どうやら令がそう見えるのは極一部の時間であるらしい。
夏に入ってからは、薔薇の館や教室でも、普段通り振る舞っているようだった。只の一瞬が、印象強かった所為だろうか。それが記憶に、その様な印象を植え付けたのだろうか。
 疑問ばかりが飛び交い、答える人は隣にはいない。仮そめの答えをあげるがどれも真実味も無く、空を掴むような空虚さが滲むように広がった。
 彼女が紅薔薇さまの妹になり、彼女を近くで知るようになってからもう随分と経つけれど、今だその姿を掴むことは出来なかった。表面上では親しくはしているものの、所詮「令さん」から変わっていない。
不変。
変わらないことに時間を割き、そこに意味はあるのだろうか。私たちが如何に立ち止まろうとも世界は変化するし、私自身意図するところでなくとも刻一刻と老いる。令は不意に顔をあげた。
考えに捕われる内に、伏せ勝ちになっていたらしい。いつの間にか、薔薇の館の扉の前に立っていた。
微かな驚きに束の間止めていた呼吸を取り戻す。
 溜め息を吐くように息を吐くと、重たげにノブを回した。



 7
 行事が近い。
長期休みが終り、その準備に向けて慌ただしい空気が学園内を包みはじめる。
未だ夏の強さを孕む陽光は生徒達に容赦無く降り注いだ。部活の道場も窓を開け放ち、風通しを良くはしているけれど気休めにしかならない。
あの日、材料費会計の報告書を職員室に運ぶため、祥子と薔薇の館を後にした。
隣を歩く祥子を横目にしながら、令は彼女が其所にいることにふと安堵し、それを当たり前のように感じている、と思い至った。
顧みても彼女と歩いていたことは思うより少なかったようだけれど、彼女の隣が快いとさえ感じているのは何故だろうか。
「令」
 令は一瞬自分が呼ばれたことに気付かなかったけれど、直ぐにそれが隣から発せられたことに気付き、何、と答えた。
 祥子は暫し何か言おうと口を開閉し戸惑うように目を泳がせていたが、直ぐに意を決したように令と目線を合わせた。



   9



 風前の灯火のような蝉の命が又一つ費え、其の音が途絶えてから幾日も経った。
何と無くその事に寂しさを覚えるのは季節柄の所為だろうか。
頭上に広がる高い空は薄く延びはじめた雲が通い、道に佇む令に秋の到来を色濃く匂わせる。
もの悲しく舞う空気は乾いた香りがした。
銀杏並木が心なし紅葉を始めたように思う。見上げれば気まぐれにみのった、まだ青い実が枝をしならせていた。
 せわしく日々が通り過ぎる。
毎年恒例の劇の演目も決まり、といってもお姉さま方は大分前から考えていたらしい、けれど忙しさに拍車が掛ったのは確かであり、仕事の他に劇の練習が増え部活動の方も文化祭が終れば大会があるので気を抜いてもいられない。
その所為だろうか。忙しさにかまけて祥子の憂鬱も、紛れてしまったかのように思えた。



     「祥子」

何故呼び掛けたのだろうか。
言ったあとで令は後悔した。

「何かしら」

祥子が振りむき、その髪とスカートがふわりと其の身に纏うように舞った。
首だけで振り返るなんてはしたない真似はしない。声は体ごとこちらに向けられた。
その表情はまるで何処かあどけなさを重ね見るような、純粋な疑問に首を傾ける無垢なお姫様。
本当に絵になる容姿だと、令は改めて思う。
「令?」
 祥子はいつまで経っても何をするでも無い令に、訝しげに眉をひそめた。
「あ、うん。ごめん、何でもないよ」
令は居心地の悪さに短い髪に手をやる。
それに合わせたように祥子はふと破顔する。
「そんな情けない顔をするものではないわ、王子様も形無しよ」
 その言葉に令は曖昧な感情を覚えた。
祥子はまだ、お姉さま方の悪戯を知らない。
私は、貴女の王子様にはなれないんだよ。
令は、祥子の苦笑に応えるように微笑んだ。


     令の疑問は綻びることなく胸によぎった。
    何故声を掛けてしまったのだろうか。
   只その後ろ姿が溶けてしまいそうに思えただけだというのに。
  考えるまでもなく、人が消えることなんて有り得ない。
 灰被りのエラは、ドレスも、カボチャの馬車も、硝子の靴も履くこと無く消されてしまったのだろうか。


そんな物は、童話の中の魔女にだけ許されたこと。



  10



 瞼をあけると、淡い陽に霞む見慣れた天井が目に映った。
心地よいベッドの上でうつうつとそれを眺めていたけれど、目覚まし時計の機械的な音が突如として切り裂き中断せざるをえなかった。
慌てて身を起こしスイッチを切ると、脳裏に何かが滲み令ははたと動きを止めた。
夢を見ていた気がする。
令は、昔此の部屋で目覚めた日を思い出した。
同じ風景、同じ香り。
既視感に近いのかもしれない。只懐かしさがこみ上げて、暫くこのままでいたかった。


 夜闇の占める夜は、この東京の街においては余り意味を持たないように思えた。
電灯の煌煌とした明かりに、空は明るみを帯びたようにその深みを失っていた。
手を伸ばせば届くのではないかと思えるほど低い空が頭上を覆う、その名に不似合いな夜だった。
常ならば静寂が満たすのであろう校舎も、校庭のキャンプファイヤーに心なしはにかんでいるように思う。
まるで不夜城のようだと、令は聳える校舎を仰いだ。


  その声は背後からした。
振り向くと、僅かに息を切らした彼女が令のもとへ駆け寄ってくる。
「ごめんなさい。私から言い出したことだというのに、待たせてしまって」
「そんなに待ってないよ」
定文を述べる会話に辟易した。直ぐ後に薄闇が自分を覆い隠し、祥子にその表情が見えていないことを祈る。
台詞をなぞる会話なんて。まだ舞台にいるのだろうか。
「何?用事って」
「ええ...その事なのだけれど...」
薄暗く、霞がかったように祥子の表情は朧気で、白い肌が月明かりに仄かに光を帯びる。
「ロザリオを渡したわ」
 不意に夜風に流れた声に私は微かな驚きとともに目を見開く。
しかし、直ぐに思い直すと驚いたのが不思議なほど酷く納得するような気がした。
彼女は確かに、祥子に必要だった。
由乃が、私に必要なように。
私は、祥子に必要なのだろうか。
「令、私」
祥子が続ける。
「私、」
 必要とされない私が彼女の隣にいる意味はあるのだろうか。
このまま、祥子の隣は彼女に譲渡した方が良いのだろう。
それが一番自然だ。
耳の奥でA Dream Is a Wish Your Heart Makesが聞こえる。


「貴女が




  魔法を。舞台から飛び降りた私に、かけさせて下さいますか?




   11



 枯れ堕ちた木の葉を又舞い上げる風は秋の香を強く孕み、此れからくるであろう冬を思わせる厳しさを内包していた。
靴音までもが乾いた空気に響くようで心地よい。かさりかさりと落ち葉が降っては通り過ぎる。
その落ち葉の影に身を潜めるようにひっそりと、私は彼女の手を握った。
木枯らしの中、暖かい掌に身を寄せるようにふんわりと、彼女の方に身を寄せた。


 目線まで持ち上げると、手に絡ませた鎖から小さな金属の音を立ててロザリオが零れ堕ちた。
古ぼけた温室の窓から入るその陽光に、埋め込まれた深い緑の宝石が光を吸い込んだように煌めき、遠ざかる三つ編みを揺らす後ろ姿が目に見えるような鮮明さで甦る。
 手から垂れる鎖にロザリオは未だゆらゆらと揺れて、その反射光が角度を変えては令の目を射した。
眩しげに目を細めると途端に視界がぼやけ、幾度か瞬き目を見開けばいつの間にか目の前を暗色の布が覆っていた。なぞるように見上げると、その制服を纏い眉根を寄せた顔と目が合う。
「ーーー祥子」
 力無く無意識に落とした言葉は、彼女の耳に届いたのだろうか。
祥子は緩くかぶりを振ると、もう一度令の目を見据えた。
「貴女の姿が見えないから気になってきてみれば」
 其処で祥子は言葉を留めた。其の後に続く物を推し量るのは容易い。
「又、来ていたの」
 令は見入るように目を向けたまま身じろぎ一つせず、降り注ぐ言葉を浴びた。
祥子は、其の様子に眉を潜めたまま硝子越しの陽を背に暫く佇んだかと思うと、スカートを押さえ目線を合わせるように隣へと腰を落とす。
そしてついと、離さずにいた目を足下へと落とした。
「ずっと、そうしているつもりかしら」
 必死の形相で叫ぶ、由乃の顔が浮かんで消えた。
「・・・分からない・・・・ずっとこのままかもしれない」
 祥子がぽつりと漏らすと令は虚ろに答えた。
 首のロザリオに手を掛ける様子が繰り返し、再生される。
昨日から殆ど見ていないというのに余りにも鮮明にうつる。令は、自分が昨日から一歩も動いていないような気がした。
 令はそれきり沈黙を通し、祥子の指が頬に触れるまで、其の距離の近さに気付くことは無かった。
たおやかな掌が壊れものを扱うかのようにそっと令の面を自らの方へと促し、僅かに開いた唇へ湿りを与えるようにしめやかに口づけると、頬に手を添えたまま令の瞳を覗き見る。
「どうして、避けないの?」
 祥子の双眸は、白い肌と黒々とした長い睫毛に縁取られ怖いくらいに綺麗だったけれど、其の中の光は酷く揺らめいて見えた。
令は其処にうつる自分の姿に何て顔をしているのだろうとぼんやりと考えた。
 まるで鏡のよう。
祥子が傍にいると、今まで知らなかった自分に気付かされる。
 令は口を噤むまま、答えを模索した。
 心の中はロザリオを突き出す強い視線に、目を奪われていた。


 令ちゃん

 由乃が言った。

 何時のことだったろうか。暖かい光に重ね見るように遠い過去を思い出した。
それは多分、初等部の頃。
由乃が日の光を浴びながら無垢に寝息を立てている。その横で、大好きだった少女漫画を読みふけり時は引き延ばされたように長閑にゆっくりと過ぎて行く。
丁度、それを読み終えた令は微かな高揚と共にその内容を反芻した。
 漫画を置くと、自分も一眠りしようと身を横たえる。
其処に、見慣れた由乃の寝顔があった。何の前触れも無くヒロインのキスシーンが浮かぶ。
令は、上半身を起こすと由乃へ唇を寄せた。軽く触れる程度で、そっと離すとうっすらと目を開けた由乃と目が合った。
何となく後ろめたくなって、離れようとするとついていた腕を掴まれて起こしていた体を倒されてしまった。
何か言おうと由乃を見ると、そのまま口を塞がれて何も言えなくなってしまった。
由乃の唇は寝ていた所為か少し乾いていて、小さくて。



 肩に掛けた竹刀の袋を掛け直す。
傾いた太陽は其の強さを無くし、長い長い影を落とした。
結果的にリリアンは負けてしまったけれど、とても清々しい気分だ。
由乃に顔を背けずに会えるかと思うと、弾む胸を押さえることが出来なかった。
歩く脚が次第に歩調を早め、伴い強まる涼やかな風が心地よい。
両手を広げて、紅い空を仰いだ。



  12



 煌やかな装飾が瞬く商店街に令は一人脚を運んだ。
クリスマスカラーの彩る町並みはまるで夢のようで、雪でも降らないかと何となく思う。
不意に首筋に滑り込んだ冷気に肩を竦め、逃げるように手近なデパートメントへ入った。
 手芸のコーナーは普段よりも活気にあふれていたけれど、目的の物は然程掛からずして手に入った。
ロザリオの宝石と同じ深緑の毛糸は、紙袋の中で何故だかとても暖かそうに転がっていた。
 令は、直ぐに縫い始めようときびすを返す。
不意に目に入ったのは、偶然だろうか。レジの近くに小さなサンタクロースのキーホルダーが売られていた。
令は、惹き付けられるようにそれを手に取った。
サンタクロースは、変わらず微笑みかけている。


 「此れを?」
 祥子は、小さな包装紙から取り出した物を掌で弄んだ。
「何か、別の方が良かったね。他にも良い物は沢山あったのに、どうして此れを選んだのか自分でも分からないわ」
 令が、髪をかきながら弁解するように言う。祥子は手の中の物から目を離さない。
「ごめん、今度何か買い直すよ」
「良いわ、此れで」
 え、と令が祥子の顔を凝視した。
「気に入ったの。それで良いでしょう?」
 祥子は、やっと其処から目を離すと令に微笑んだ。
「大事にするわ」
 言葉通り、祥子は大事そうにそれを掌で包み込むように胸に抱いた。
サンタクロースは、変わらず微笑みかけている。


   両家の両親と恒例の食事に出掛けた帰り道。プレゼントを渡すと、由乃は嬉しそうに微笑んだ。
寒さの所為だろうか。白い頬に薄紅が差していた。
促すと、装飾の施された紙袋から取り出した深緑のマフラーを首に巻いた。
それは由乃にとても良く映えていた。
似合うよと言うと、由乃は更に顔を赤らめ照れたような怒ったような顔をした。
不意に由乃は口を開き、何か言いたげにこちらを見るが続く言葉が出てこない。
「どうしたの?」
「・・・」
 由乃は更に怒ったように開けた口を噤むと、コートのポケットから丁寧に小箱を取り出した。
可愛らしく、ピンクの包み紙と白い装飾の着いたリボンに包まれた匣は、由乃の小さな手にとてもぴったりに見える。
令はそれを受け取ると、箱ごと手を掴まれぐいと引っ張られた。
既視感がよぎる。
由乃は令に口づけると、紅く染めた頬を強張ったように歪ませ又怒ったような顔をした。
 令は、立ち尽くしたまま動くことが出来なかった。
 泣きたい程、彼女に謝りたかった。



  1



 指先に触れた雪は音も無くほどけ、するりと胸に冷ややかな風が吹き抜けた。
当ての無い雪溶けに思いを馳せる。この冬は何時になれば氷解するのだろう。あきらかな諦念とともに、その冷たさに目を閉じた。
 雪はこんなにも脆弱に儚く流れ逝くというのに、張り巡られた氷は意固地に春の存在を忘れた。はらりはらりと冷気がはがれ堕ちるかのように希薄になっているというのに。蕾が鮮やかに花ひらこうというのに。



 「令ちゃん!早くしないと行っちゃうよ」
由乃が階下から大声で叫ぶのが聞こえた。
「ちょっと待って」
 同じくらいの大きさで声を張り上げ、令は慌ててコートを羽織った。乱れたシーツの覆うベッドの上には急いで脱ぎ捨てた寝間着が散乱している。
「お待たせ」
 由乃の待つ玄関先に並んだ時、然程時間は経っていなかった筈なのに由乃は遅いと頬を膨らませた。
そもそも、例年の時間よりも未だ1時間もある。令は気の早い従妹に苦笑しつつ、未だ日の昇りきらない道路を歩く。しかし此の時間帯には不似合いな程に人の群れは絶え間なくあふれている。
「皆初詣なんだろうね」
 すれ違う人並みを眺めながら令は意味も無く呟いた。
自宅から一番近い神社に近づくにつれて人の姿も徐々に数を増し、令は由乃の手を握った。由乃ははっとしたように手を強張らせるがそのまま握り返す。
令は気付かない振りをしながら、長い列を作る参拝客の最後尾に並ぶ。先頭はまるで見えないが白い息が並んだ頭から吐き出される様は何処かおかしかった。
じんわりと手に汗が滲む。
それは、由乃のか、自分か、分からなかったけれど、どちらでも関係ないと思った。
 この日、由乃が令と目を合わせることは無かった。
 


 耳に当てた受話器の中で電子音が燻るように鳴った。
 一回。
 掛けた番号はもう覚えてしまっていた。
 二回。
 出るのは誰だろうか。叔母さまか、又別の人か。
 三回目のコールが唐突に途切れた。耳障りなノイズが微かに聞こえる。
 「はい、小笠原ですが」
 其の声は祥子だった。
 
「祥子、あのさ」
「令?」
「うん、えっと、今出れる?」
「どうしたの?急に」
「ちょっと話しがしたくて」
「そう、出れないことは無いけれど余り時間がかかるようだと家の者が心配するわ」
「分かった。余り時間は取らせないよ」
「そう、ではどうすれば良いのかしら?」
「今からそっちに行くから、頃合いを見計らって出てくれない?でも、寒いだろうからちゃんと上着は着て来て」
「言われなくても着るわよ」
「それもそうね、ごめん」
「用件はそれで良いのかしら」
「うん、切るよ。又後で」
「ええ」



 街灯のもと閑静な住宅地の一角に彼女の姿はあった。
寒々しい凍てつく空気は何処となく底の見えないような、けれど澄んだ深海を思い出させた。
「ごめん、急に呼び出して」
 自転車で走ってきた所為で露出した肌が痛みを覚える程に冷えていた。
「良いのよ」
 祥子は、ネグリジェだろうか。令には憧れていてもとても着れないような綺麗な模様の着いた薄手の服を纏っているようだったが、それと分からないように厚手のロングコートをきっちりと閉めて着ていた。
その細い首から垣間見えたその姿にどきりとしながら、令は何かに縋るように尋ねる。
「その、家の人には?」
「言っていないわ」
 簡潔な答えに、令は言おうとしていた言葉をにわかに失う。
「それで、話したいことって」
 察したように祥子が助け舟を出した。
令は僅かに、吐き出した白い息の行方を追うように目を泳がせ、かじかみ始めた手で髪をかいた。
「・・・私が、由乃とキスをしたといったら」
 祥子は、一瞬息を止めたかと思うとそれが錯覚ではなかったのかと思う程、探るように令を見た後確認を取るかのように聞く。
「それは、貴女からしたのではないのね?」
 曖昧ながらも頷くと、祥子はもう様が済んだと言わんばかりに背を向けた。
令は慌てて呼び止める。
「良いの?」
「不可抗力でしょう」
「でも」
 それなら、と祥子が漸く振り返る。
「私にしてくれないかしら」




 一枚のドアの前で暫し立ち尽くす。
ずっと見詰めていたら只の扉が余りにも強固に見えて、壁の前に立っているような錯覚に陥った。
そんな錯覚を振り払うようにかぶりを振ると、令は軽くノックし、ノブをまわす。
 見慣れた部屋の中で、由乃はクッションを抱いて令を凝視していた。
思い詰めたような、じっと何かを待つような顔をしている。令は、軽い驚きを覚える。
今日、由乃に此のことは伝えていない筈だった。
そのことを口にすると、由乃は何年一緒にいると思ってるのと思ったよりも静かな口調で言った。
 令はタイミングを掴みかね、その場で正座をすると手をつき、頭を下げる。
由乃は何も言わずそれを見詰めている。
「ごめん」
 あれだけ考えあぐねいていたというのに、口をついた言葉は簡潔だった。
それきり音は無くなり、壁にかけられた時計がカチカチとその存在を誇張し始める。
自分の膝を見詰めて令は張り手を喰らう覚悟で頭を下げたまま動くことが出来なかった。
顔を上げて、由乃の顔を見るのが怖かったのだろうか。
彼女は今どんな顔をしているのだろうか。
部屋に入ったときのような思い詰めた顔をしているのだろうか。
泣きそうな顔をしているのだろうか。
不条理な話ではあるけれど、出来れば、泣いて欲しくは無かった。
「令ちゃん」
 その声に、漸く令は顔を上げる。
目に入った由乃の顔は、目頭が少し紅くなってはいたけれどその目元は確かに微笑んでいた。
令は罪悪感がこみ上げた。自分の方こそ、泣いて縋り付きたくなったけれどその微笑から目を離すことが出来なかった。
「有り難う」
 その顔は、とても綺麗に見えた。



   突き抜けるように澄んだ蒼が覆う碧空は何処か虚しくて、悪戯のように名前で呼び合うお姉さま方を見た寂しさが甦る。
 新学期に入り、久しぶりに見る学校の骨組みのような寒々しい木々は、茂ることを忘れてしまったかのよう。
 そびえ立つ桜の木を見上げながら、そんなことを思う。
年季を感じさせる無骨な木肌は、本当に繊細な花弁をその枝に抱くことが出来るのか。
そんなことさえも疑わしく思える程に、全てが彩色に欠いていた。
 こつりと靴音が耳朶へ届く。
振り返ることも不要な程聞き慣れた足音。
「何を見ているの?」
 横に並ぶと、祥子は口を開いた。
令は見上げたまま答える。
「何を、見ているのかな」
 祥子が、くすりと笑みをこぼす気配がした。
「貴女に聞いているのよ?」
「うん、そうなんだけれど」
 会話が途切れ、一陣の風が吹いた。
凍てついた風は二人の制服と髪をはためかせ、颯と通り過ぎてゆく。
「そういえば、未だ答えを聞いていなかったわ」
 ふと、思い出したように口にすると令を仰ぐように見上げた。
「うん、そうなんだけれど」
 令は同じ言葉を繰り返す。
相変わらず、何処とも知れない場所を見上げている。
「令」
 祥子が咎めるように語調を強め、拗ねたように上目に睨んだ。
「ごめんごめん。やっぱりさ、思うんだ」
令は苦笑し、髪をかくと漸く祥子を見遣る。






「祥子が、好きなんだって」









  もうすぐ、暖かくなるわね

 そんな声が、何処からか聞こえた気がした。
 














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